Koji's Classroom II

ボルチモア・オリオールズと上原浩治投手の応援ブログ。スポナビ+から引っ越してきました。

『コア・フォー ニューヨークヤンキース黄金時代、伝説の四人』

わたしにとって初の、野球ものの翻訳書が出ましたので、きょうはそれをご紹介します。

『コア・フォー ニューヨークヤンキース黄金時代、伝説の四人』(フィル・ペペ著 作品社

 人々は、待ちわびていた。

 若き救世主たちが登場するころ、名門の威信は地に落ちていた。

 一九九〇年一月一日、二〇世紀最後の十年が幕をあけたとき、つねに誇り高く、はなはだ傲慢で、高飛車だったかつての強豪ニューヨークヤンキースは、落ちぶれて、混乱と動揺と紛糾と機能不全のさなかにあった。

――『コア・フォー』p.10

1982年から89年までの8年間に、なんとヤンキースでは11人もの監督が指揮をとりました。

82年から90年までのGMも7人。

長期政権にも、もちろんそれなりの弊害があるでしょうが、これだけひんぱんに監督とGM代わったら、チームとしての体をなしません。

そんななか、1990年にマリアノ・リベラドラフト外契約でひっそりと入団。同じ年のドラフトでアンディ・ペティットとホルヘ・ポサダが指名され(ふたりとも短大卒で、当時の「ドラフト・アンド・フォロー」制度により、入団は翌91年)、92年のドラフト(全体6番め)ではデレク・ジーターが指名されます。ヤンキース黄金時代への序章です。

本書の読みどころのひとつは、まずなんといっても、4人がそれぞれ紆余曲折をへてヤンキースの一員になり、メジャー昇格を果たして、初のワールドチャンピオンに輝くあたりのドラマ。これはヤンキースファンならずともわくわくします。

あとでくわしく書きますが、著者のフィル・ペペは、新聞記者時代、試合の記事を書かせたら随一といわれたそうで、1996年のブレーブスとのワールドシリーズヤンキース側から見ると3連敗4連勝)や、逆にチャンピオンを逃した2001年のダイヤモンドバックスとのシリーズなどは、文字だけで読んでも「うわー!」となります。

でもせっかくなので、ここでは96年WS第4戦、ジム・レイリッツの同点3ランのビデオをリンクしておきましょうか。日本だと巨人対近鉄日本シリーズ(1989)で駒田が「バーカ」といいながらベースを一周した場面が思い出されますが、何かをきっかけにがらりと趨勢がひっくり返ってしまうということは、そんなにしょっちゅうではないけれど、あるものなんですね~。だからスポーツはおもしろい。いっぽう、そんなふうにひっくり返ってしまいそうなことがおきても、力でそれを食い止めることもある。それが2001年のワールドシリーズ。どちらもスポーツのすごさの極みだと思います。

ちなみに1996年のWSに至る前、リーグ優勝決定シリーズではヤンキースオリオールズ(当時はデイブ・ジョンソン監督)が戦っているのですが、このときはオリオールズ界隈で今でもうらみがましく語りつがれている「ジェフリー・マイヤーのアシストホームラン」が飛び出しています。打ったのはジーター。このあとヤンキースは黄金時代をむかえ、かたやオリオールズは翌1997年に地区優勝したのを最後に、長い低迷期に入っていくわけです。

そして本書後半では、ときどき時系列をすっとばして、過去の名選手の話や、クローザーとは何かという話などを織り込みながら、「コア・フォー」の4人が頂点をきわめて、ゆっくりと現役生活の終盤へ向かい、引退していくところまでが語られます。リベラとペティットがマウンド上で抱き合う場面とかね。まだ記憶に新しいですが。

目次を画像であげておきます。ゆがんでるけどご容赦を。

 

おもしろいのは、わたしの愛するバック・ショウォルター監督がたびたび登場するところ。

まあ、コア・フォーが初めてメジャー昇格したときの監督なんだから当然なのですが。1995年の地区シリーズでマリナーズに負けて解任される(形の上では辞任なのかもしれませんが、事実上の解任)あたりは、訳していてめちゃくちゃ複雑な気持ちになりました。解任されずにそのまま96年も指揮をとっていればWS優勝監督になっていたかもしれないのに……でもそうしたら今オリオールズの監督をやってないだろうな……みたいな。そしてジーターの引退イヤーである2014年、ヤンキースタジアム最後の試合が、オリオールズ戦。9回裏1アウト二塁でジーターに打席が回り、一塁が空いていたにもかかわらず、ショウォルター監督はジーターとの勝負を選びます。結果はライト前サヨナラタイムリー。「なぜショウォルター監督は勝負を選んだのか」と本書にもちらりと触れられていますが、あのときオリオールズはもう地区優勝を決めていました。ですからショウォルターとジーターという、野球をリスペクトするふたりの真剣勝負が実現したのでしょう。

本書は、当初、2012年シーズンの終わりまで(第29章)を描いたものが出版され、その後、リベラとペティットが引退した2013年シーズンを「エピローグ」(本書では第30章)という形で付けたした新版が2014年に出版されました。

さらに日本版出版に合わせて、著者のぺぺさんは、「コラム 松井秀喜」と「最終章 デレク・ジーターの引退」を書きおろしてくださいました。

50冊も著書のある人なのですが、日本で訳書が出るのはこれが初めて。

その出版直前の12月14日、なんとぺぺさんは、80歳の生涯を閉じられたのです。びっくりしました。

#RIP legendary NY sports writer #PhilPepe -- a dear friend + @cbsradio friend who will be hugely missed. pic.twitter.com/k4IY0MchKy— Dan Taylor (@DanTaylorCBSFM) 2015, 12月 14

奥付の著者紹介にも記したのですが、26歳でヤンキース番記者になり、ロジャー・マリスによるベーブ・ルースのシーズン最多ホームラン記録への挑戦を追ったのが記者生活のはじまり。それから半世紀以上、ヤンキースの激動の時代を最前線で追いつづけ、コア・フォーの引退を見届け、本書のために松井とジーターの記事も書いてから亡くなった。お目にかかったことはもちろんありませんが、生涯現役とはこのことだなと思います。新聞記者生活の大半を送った「ニューヨーク・デイリーニューズ」紙の追悼記事にリンクをはっておきます。

自分の心おぼえにもうひとつ。

ヤンキースでは1979年の8月に、キャプテンで正捕手のサーマン・マンソンが、みずからの操縦する小型飛行機で事故を起こして亡くなるというたいへんな悲劇がありました。本書でもそのことには何度か触れられているのですが、おどろくほどさらりとさりげなく書かれています。

でもぺぺさんが亡くなったあと、記者として79年当時、「ニューヨーク・デイリーニューズ」に書いたマンソンの追悼記事が再掲されているのを読んではっとしました。ぺぺさんはマンソンととても親しかったそうで、出社したときにはショックのあまり頭をかかえこんで言葉も出なかったのですが、同僚に「今、きみが感じていることをそのまま書けよ」とはげまされて、記事を書いたのだそう。マンソンが、タフガイを装っていても、じつは繊細でナイーブな心の持ち主であること、家族を何よりも大切にし、少しでも休みがあれば自宅にとって返して休日を過ごすこと、そのために自家用機の免許をとり、球団関係者がはらはらするのをよそに、おおよろこびで飛行機を操縦していたこと。さらには、事故の一報を聞いて当時の監督ビリー・マーティンが「赤ん坊のように泣きじゃくった」こと(しかしそのビリー・マーティンも10年後に自動車事故で亡くなります)、のちに巨人にくるロイ・ホワイトが「ショックで口もきけない状態」におちいってしまったこと……等々。心にずんとくる記事でした。

50年も記者をやって、ひとつの球団をつぶさに追っていれば、それがたとえ大衆を楽しませるためのスポーツであっても、喜びや栄光とともに、あらゆるごたごたや、醜聞や、脱力、疲弊、そして時折おとずれる悲劇に立ち会わざるを得ません。それを真正面から浴びて自分のなかで消化しつつ、どこかで一番鋭い感情にはふたをしてクロゼットのすみにしまったんだろうなと、この記事を読んでふと感じたのでした。

そんなぺぺさんの語る『コア・フォー』。けっしてエモーショナルに盛り上げるところはないのですが、それでもぐっとひきこまれます。こまかな項目がたくさんありますので、興味のあるところだけひろい読みしてもじゅうぶん楽しめそう。ヤンキースファン以外のかたもぜひどうぞ。(訳者含む(笑))